道の草を食わない

九州の上らへんから、ぼそぼそと。

計画と人生

 

日付を見る限り、このブログに最後に記事を書いたのは4年ほど前だったらしい。その時から今まで、どうやら僕の悩みは変わっていない。

環境が変わり、頭の中でこねていたスタンスや悩みが、現実上の困りごととして浮上した、ただそれだけのことだ。

 

計画と人生。

多少大げさだが、そんなタイトルをつけてみた。

だが正確には、計画を実行できないことと人生、というべきなのかもしれない。

大学院や会社での勤務、そして在野での研究活動等さまざまな失敗を経て、この問題に対してどう向き合うかという極めて実践的なことが、目の前に浮上しているのである。

 

これも、どこか皮肉なことだ。

 

なぜなら、過去に書かれた文章を見る限り、そのような人格に対してある種の一貫性を求めるような態度に対する反発こそ、僕の学術的関心の背後にあったものではないかと思うからだ。

自己というテーマに関心を持ったのも、自分の中に、どうやら世間で求められているような自己像をつくりあげられないことに気づいたからだ。

しかし翻って思うと、そもそもそんな一貫した自己性など、どこでも求められていないのかもしれない。いや、正確に言えば、求められているのは「行動」であって、その奥に仮構される「自己」なるものは、案外みな仮構であることに気づいている。気づいていて、でもその仮構をもとに、ひとまずある程度安定した行動を生み出すことができている、そういうものなのではないか。

 

そして僕はそれを生み出せずにいる。

反発し、それをモチベーションに学び・書こうとし、そして書くためには反発の源となっているものをどうにかする必要があることに気づいた。

とすれば、これは結構大きな問題である。

さてどうしよう。

 

 

考えるのは、嫌いではないはずだ。

でなければ、大学院に行こうなど思うわけもない。

しかしここ数年間、そうしたものからどんどんと離れていたかもしれない。

 

先行研究が抑えるべき「前提」となり、

「対話相手」とならなかったのがもっとも不幸だったのかもしれない。

僕は常に、前提を抑えていないことに対して怯えていて、ゆえに文献と対話をしてこなかった。そもそも対話相手など、いたのだろうか。

 

「難しいですねえ」

「〇〇が議論していたように思います」

「もっと勉強してみますね」

 

みたいなことしか言っていなかったのではないか。

目の前のことについて、なんらかの未来診断的なことを述べるのには禁欲的になるべきであり、より深くそれに迫ろうとする立場に僕は与したいと思う。だが、何かを述べようとする態度との均衡の中にこそ、それはあるべきではないか。

 

またべき論を語ってしまった。

不毛である。

1000文字書いたので、今日はおしまい。