道の草を食わない

九州の上らへんから、ぼそぼそと。

1日1000文字書く

 

 

突然だが、1日1000字書くことにした。
一年くらいまえに2000字書くといって挫折した記憶があるから、その反省を踏まえている。反省を活かすことができれば成長したということになるのだろうが、それは今後の結果次第である。今回はさしずめ、目の前に迫った課題について少しずつ考えてみたい。なお、参考文献などは考えない(もしかしたらあとから追加するかもしれない)。書くことが重要なので。 

 

研究のテーマは演劇である。

そう言いはじめたのがいつだったのか覚えていないが、それが「とりあえず」の部類に収まっていたことはよく覚えている。何も決まらないまま卒論が近づいてきて、なにはともあれ決めておかないと何も始まらないぞと、あとで変わってもいいからとりあえずスタート地点を作ろうということで確か決めたのである。そしてそのままずるずると大学院まで来てしまった。

ここ最近、遅れてきた5月病で、どうも自分はこのテーマをどう掘り下げていってよいのかわからなくなってきている。少なくとも問いも明確でなければ、対象も明確ではない。方法だけ人類学でやりたいと思ってここまできたが、人類学の方法といってもそれなりに多様でありまた排他的なものは現在ほとんど存在しない。さて、自分はなにをしにここまでやってきたのだろうか。典型的な5月病である。せっかくなったのだから、ここでしばらく考えてみたい。

 

演劇、嫌いではない。こういう表現になるのは、どうも演劇をいつも見に行きたいと思うほど演劇ファンではないからかもしれない。どんな演劇が好みかと言われると少し難しいのだけれど、最近仕入れ来てきた僅かな知識では、おそらく新劇系のなんだか重厚そうなテーマを扱ったようなやつが好きなのだろう。コメディも好きだけれど、大学とかそこらで観る演劇は大抵内輪感があって好きではない。

それでも演劇というもの興味を持ってきたのは、おそらく自分がかつて演劇をやった経験があるからである。決して好きでやったのではない。授業でやったのである。それも一年をかけて。

その時の経験は、いまだに言葉に上手くできないものとして残っている。楽しかったわけではない。至上の価値を見いだしているわけでもなければ、文句を言いたいわけでもない。つまり対して言いたいことがあるわけでもないのだが、なぜだかこの経験はずっしりと自分のなかに残っていて、どうにかこれを消化しろと呼びかけてくるのである。

このようなわけだから、演劇ということに向いている僕の興味はおそらく僕自身に向けたものであって、決して他人に向けられたものではない。つまり、他者を問おうとする人類学という学問フィールドで問うべきものではない、ということになる。もちろん演劇それ自体は十分に問うべきものであろう。しかし、どうも自分にとって演劇の問いはどうやらそこで終わってしまう。どうしたものか。

 

こうしたことから目をそらすために、ここのところ「他者を演じる」という行為を中心に興味を向けてきたことにしていた。つまり演劇をさらに役者の行為というところに焦点を絞った上で、そこで行われている行為を「他者」を身体を用いて「演じている」と考えるということである。しかしそうなると「他者」という言葉の定義が問題になる。

まず他者について考えてみよう。

哲学でいうところのレヴィナス的な「他者」をイメージするなら、それは決して演じられるべきものではない。なにはともあれ、これをレベル①としておこう。
一方民俗芸能の文脈で考えると、それは神とか精霊とかの人間ではない人間には理解し得ない存在としての「他者」である。これがレベル②である。
また日本の現代演劇を考えてみると(非常に幅広い実践ではあるが)、そこにいるのはおそらく自分とは異なる文化的な背景を背負ったという意味での「他者」である。ここでいう文化的背景とは国レベルのものから階級レベル地域レベルなどいろいろなケースが想定できるが、つまりこれがレベル③である。

さて、演劇や芸能においてなんらかの形での「他者」が存在し、役者はそれらと稽古や本番を通じて関係をつくってきたのだとしよう。しかしそれを「演じる」ということはどういうことなのだろうか。

まず我々が注意すべきなのは、演じられる対象である「他者」は演劇の過程を通じて変化しつづけるものであるということである。それがもっとも顕著であるのは、おそらく現代演劇かもしれない。現代演劇はその他の伝統芸能と違いある固定的な役というものがほとんど存在しない。役者は公演ごとに異なる役に参入するのであり、それはおおよその場合はあるスクリプトとして存在しているものである。

パフォーマンス研究者のリチャード・シェクナーは演劇から儀礼までさまざまな行為を「パフォーマンス」として捉え、それらの特徴を「行動の再現」として一括した。それは儀礼や演劇、芸能を過程的に見ようという宣言であり、徹底した構築主義の宣言でもである。例えば演劇一つをとってもそれは決して静的に分析可能なものではない。それはある行動の再現(それはリハーサルを通じて一日前の自分の行動の再現が行われるというミクロな次元をも含む)でしかないのであり、少しずつ変わっていくことをその内に含んでいる。そしてそうした再現の過程は、最終的な本番において一つの新しい起源と本物という次元へと固定されるのである。

 

唐突だが、ここで終わりとする。何も整理していないし見返してもいないが、いつのまにか2000字を超えていた。書くことさえ決めていないし、少し前の文章と接続させる気もない無茶苦茶なものができあがったが、とりあえずここで一旦筆を置くこととしたい。

 

※ここまで書いてふと気づいたが、一つ前、つまりおよそ8ヶ月ほど前の投稿を見てみるとどうやら同じようなことを考えているらしいことがわかる。人間そんなに変わりはしない。そのうち、前回の記事の後の顛末についても自分でまとめがてら書いてみたいところである