道の草を食わない

九州の上らへんから、ぼそぼそと。

自己を物語ることについて

 

 

先日より、研究に関連するかもしれないというので、いくつかの本を借りてきては積み上げている。実際読み終わったわけではないのできちんとした紹介はできないのだけれど、いずれも主題にされているのは「物語ること」である。

 

そういえば、書き忘れていた。

専攻は教育哲学、ということになっている。なっているというのはごく単純で、所属している研究室は教育哲学だけれど、自分がやっていることが果たして教育哲学なのか自分にはさっぱり自信がないということだ。そもそも教育哲学が何なのか、ということも非常に説明が難しいのだけれど、無理矢理いくつかに分類してみたとしてもやはり自分がその中にいるのかよくわからない。始めてまだ半年にも満たない、中途半端な立ち位置である。

さて、そんな中でもとからずっと気になっていたのが「演じる」ということで、これはパフォーマンス・スタディーズと重なりつつもどこかずれるような内容である。どうにも以前から、なにか全く違う役を演じる、という体験に興味がある。

同時にそれと重なりつつ気になっていたのが「物語る」ことである。なぜ作家はまるで違う人格を描くことができるのか。それがファンタジーであれ、現実を舞台にしたものであれ、自分とは違う存在を描くことができるということが常に気になって仕方がなかった。

技術としての「演じる」「物語る」ということ以外にも、それを人間のあり方と重ね合わせて考えることも面白い。

「演じること」と「語ること」。

どちらもどこかマイナスなニュアンスも併せ持つ、不思議な言葉だ。真実と虚構の狭間に生きている人間を表現する上でこんなにもぐっとくる言葉があるだろうか。本物なんてものはないと頭のどこかでは思いつつも、僕たちは日常を疑いもしない「自分」として生きていたりする。意味をめぐるこの自覚と無自覚。その揺れ動きこそが面白いのだと思う。

 

話がずれてしまった。
そう、自己を物語ることについての話だ。

物語的自己同一性、という話が「物語」と「教育」を扱う本にはやけに多く登場する。つまり私たちは「私たち自身」を理解するとき、あるはじまりとおわりをもった「物語」としてのみ理解できるのだということである。
物語とはつまり、はじまりとあいだ、そして終わりをもつストーリーの形式であり、我々の頭は世界を解釈する時にそのようなものとして理解する傾向がある。誤解を恐れずに言えば、物語の枠組みを世界に当てはめることをもってのみ我々は世界を、自分を、他者を意味をもったまとまりとして理解できるのである。

納得できるような出来ないような話である。
「自分」というものを意味を持ったまとまりとして捉えようとするとき、確かに物語の形式を用いていることは確かである。しかし、そうではない時に「自分」はないのだろうか。物語論が捉えているのはあくまで「物語的自己」でしかなく、それはすべての「自己」ではないのではないか。

あたりまえではあるが、物語、という図式を用いて理解できることには一定の留保が必要である。そこから当然のように身体の次元はこぼれ落ちているし、そこで想定されているある統一性を持った自己という観念自体がある種特殊近代のものだとも指摘できるかもしれない。

そうした事柄はすでに多くの論者が自覚している。その上で、「物語」という形式を用いて理解することの効用を説いている。

 

そのようなことを勉強している、のだと思う。

なぜこんなことに興味を持ったのだろうか。どうにも、僕には自分自身を語ることに対して、いささかの躊躇がある。いや、むしろ後悔が多い。その場その場でいろんな語りかたはできるのだけれど、毎回変わってしまう。変わってしまうことを毎回後悔する。

自分というものは、果たして一貫性なんてないのだろうか。
物語は毎回語り直されることによってかろうじて同一性を保っているにしても、これでは語り直すどころの騒ぎではない。なんだか別人格のようだ。今日大切にしようと思ったことも明日の自分には通用しないし、あさっての自分が覚えているかどうかもわからない。

こんな状態だから、いまだに本当にたくさんの不義理を犯してきたし、いまだに決着がついていないものも本当に多くある。過去の自分を今の自分とつながったものであると言う風にいつも感じることができないから、いつでも目の前のことを優先してしまいあらゆることが後回しになる。

強い物語を欲している。
小説や、アニメや、映画や、漫画を見て、その中で描かれるストーリーに浸りながら、ようやく自分の人生を一つの物語として語れるような気持ちになる。

ナラティブは誰もがしていることだけれど、どうにも難しい。

そうした難しさを探り当てたいのかもしれない。

 

 

かなり支離滅裂になってしまった。

当初は勉強していることをまとめようと思ったのだけれど、一度時間をあけたところいろんな感情が混ざり合ってしまった。ちょうど文字数もいいところなので、このあたりで終わりにしたい。あとで一度見直して書き直すことになるとは思うが、今日は今日の記録ということで。