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みちのくさを食う

九州の上らへんから、ぼそぼそと。

捨てられない自分

 
自分のことを一言で表すと、なんていう理不尽な設問がある。
そんな無茶な。
「自分」なんて言っているけれど、そのうちの大半は自分でコントロールできないことばかりなのに、それを一言で表現するなんて、まったくおかしな話だ。
なにかを選ぶということは、なにかを捨てるということである。
けれど、あんな自分も、こんな自分も捨てられない。
そこまで考えて、そうか、自分を一言で表すと「捨てられない人」なんだと気づいて馬鹿らしくなった。
 
カッコいい大人は、捨てられる人だと思う。
だからそんな人のことを僕は、いけ好かないと思う。
捨てられないみっともない人間を勝手に代表して、思う。
ご存知の通り、ただの逆恨みである。
 
目の前にあるものを並べてみて、
結局並べることにすら疲れて諦めたり、
並べただけで満足したり、
結局結論は出ないまま、
ぐだぐだと醜態を晒しながらどこかに落ち着いて、
それでもそんな結果になんとなくいいんじゃないかと思うような、
そんな感じでも、いいじゃない、なんて。
もちろんだめだけれど、ただ捨てられるようになるなんて、嫌なのだ。
 
ますますややこしいことに、捨てられないのはいまの自分だけじゃなくて、
「こうありたい」とか「こうあったかもしれない」自分でもある。
それを嫉妬と呼ぶし、
逆恨みとも呼ぶ。
僕の人生の大半はそうした感情で埋め尽くされていて、
とても非生産的だ。
恨んだり、羨んだり、僻んだりするくらいなら、自分でやればいい。
目の前のことを一つずつ進んでいくことでしか、物事は解決しないのだと。
そうわかっていても、素直にそうはしたくない。
 
そんな自分を、僕は「みっともないロマンチスト」と呼びたい。
美しい名前を与えて、少しくらいは励ましてやりたい。
汚点だらけで、上っ面ばかり誇らしげな仮面を被った、そんな自分にも救いはあるのだと。
そう思いたい。
少々悲観的かもしれないけれど、それでも僕にとってはかなり前向きなつもりだ。
 
「成長するまえの自分」と「成長したあとの自分」はまるで別人である。
そう友達が書いていた。小説を紹介しながら、すごくうまい語り口で言っていた。
僕も彼もその小説が好きだったし、もしかしたら「自分を失う」ことに対して少し敏感なのかもしれない。
 
成長したあとの自分は、きっと別人だ。
最近、つとにそう思う。
過去の自分を振り返って、馬鹿だなぁ、と客観視できるように、
いまの自分の感情は、未来の自分によって否定されてしまうかもしれない。
「変わりたくない」と思うのは、きっと、連綿とつづくたくさんの僕に対する、いまこの瞬間の僕の抵抗なのだ。
 
アイデンティティなんてものを考える事自体が、
実は結構馬鹿らしいことで、
なぜならこの一瞬の自分と次の一瞬は別人だし、その先の一瞬の自分はもっと違う。
そんな当たり前のことからでも、同一性を疑えてしまうほど、アイデンティティなんて曖昧なものだ。
 
あいまいな、日本のわたし。
あいまいな、世界のわたし。
 
いつだったか朝の空を見て、ふと思ったことがあった。
空にはちょっと灰色がかった微妙な色の雲が浮いていて、
僕はその色こそが、すべての色が混ざりあったものなんじゃないかと思ったのだ。
光の三原色みたいに白になったり、黒になったりするんじゃなくて、
すごく曖昧な、
きっと灰色に虹色が混ざり込んだような、
そんな色こそがすべての色の源なんじゃないか。
 
きっと、僕たちは曖昧さを捨てられない。
ぼんやりとした、説明できないことの中でこれからも生きて行くし、それこそが「僕」というものを統一的に考えることのできる、唯一の根拠だと思う。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

移動にもっと意味があった頃

 ふと思い立って東京物語の予告編を見た。

 



僕はこのストーリーをまるで知らないけれど、この予告編の中で語られている「東京」という場所との距離感が、僕の感じるそれとはまるで違うのだけはわかった。

どこかへ移動する。
遠い距離を越えて、まるで知らない町へ、場所へ、文化へ、人へ会いに行く。そこで暮らす。その実感が、寂しさが、期待が、いまのそれとはまるで違う。もちろん、いまという時間軸で比較してもあまり意味がなくて、いまの僕という一つの点と比較した時なのだろうけれど。

移動手段の発展は情報機器とかの目立ちやすい発展の後ろに隠れてしまっている気がする。けれども、本当に多くの変化をもたらしたのんだなあ、としみじみ思った。
その視点だけで歴史を見返しても、十分に面白いのだろう。一度調べてみたい。本になっている気がする。

 

昔、小学校4年生の頃だろうか。
夏休み、京都の北からフェリーに乗って、北海道へ向かった晩のことをよく覚えている。

夜中の波止場で見上げたフェリーはあまりにも巨大で、夜の闇とコンクリートの壁に打ち付ける波の音の中にシルエットとして黒々と浮かび上がっていた。抑えきれない胸の高鳴りを感じた。

北海道。それははるかに遠い土地で、そこに向かうという事実だけで胸がはちきれそうだった。

あの時北海道で過ごした一週間は、まるで一ヶ月か半年くらいの長さだったかのような気がした。

 

あれからもう12年以上経ち、僕はいろんなところを旅するようになった。琵琶湖を一周したり、愛媛まで行ったり、しまなみ海道を渡ったり、九州は阿曽山・佐世保を巡ったり、果てはヨーロッパを一ヶ月放浪したりカンボジアに飛んだりもした。

けれど、あの日、フェリーを見上げながら感じた途方も無く広い世界はどこにもなかった。「やっぱり本物は違うね」とそれっぽく語る言葉は、事前にインターネットで調べたことを再確認するだけの作業であったり、かけた時間とお金を意味づけする為の言葉に過ぎない。

 

世界は広い。

いや、狭い。

それは楽しくも寂しい事実だ。旅をするたびに、こんなに簡単にいけるという幸せと、けれども落語の中で出てくるお伊勢参りのような感覚が決してそこにはないことを実感する。

多くのものに憧れすぎた僕たちは、どこへ向かうのだろう。

 

なんとなく、一つの歌を思い出した。

 

『らしさ』SUPER BEAVER

自分らしさってなんだ。
人とは違うで差をつけろ。
コンビニの雑誌コーナー。
表紙に太字で書いてあった「自分らしさ」ってなんだ。
子供の頃は気にもせず。気に入らなければ怒って。好きなものを好きだと言って。
僕らは変わっていく。
守りたいものが変わっていく。
理解されない宝物から、理解されるための建前へ。
大人になるほど、後悔しない生き物になる。
でもね、それでもね。見えるものがあるんだよ。
だから僕は僕らしく、そして君は君らしくって、最初から探すようなものではないんだと思うんだ。
僕は君じゃないし、君も僕じゃないから。すれ違う、手をつなぐ。そこには愛だって生まれるそういうもんさ。
自分らしさってなんだろう。
変えられない、大切があるから。変わりゆく生活が正しい。

個性を出さなきゃいけない。
そういう流行りの無個性で。
悟ったように一歩引いた、匿名希望の傍観者。
ちょっと待ってよ星空は、変わらずあの日と同じだよ。
理解されずとも宝物は、今でも宝物のはずでしょう。

変化が怖くて。
変わらぬ日々も嫌いで。
変わりたくて、変われなくて。
子供の頃を思ったりもして。見失いそうで。
自分である意味とか。
コンビニで見かけた太字を、気にしてたんだろ?
でもね、それでもね。見えるものに気づいてよ。

だから僕は僕らしく、そして君は君らしくって、はじめから、探すようなものではないんだと思うんだ。
僕は君じゃないし、君も僕じゃないから、すれ違う、手をつなぐ、そこには愛だって生まれるそういうもんさ。
自分らしさってなんだろう。
変えられない大切があるから、大切があるから。

変わらない大切があるから。