道の草を食わない

九州の上らへんから、ぼそぼそと。

恋と覚悟

 

ここのところ、一つの問題にずっと頭を悩ませている。

それは、自分の中にある構築主義的側面と、本質主義的側面のぶつかり合いと表現できるかもしれない。
恋とはいったいなになのか、付き合うとはいったいどういうことなのか、これまで観客として眺めてきたその問題を、あまりにも問われすぎていまさら問うことすら恥ずかしくなってしまうような事柄をいまさら考えているのである。
「覚悟」という言葉がその中で浮遊している。もし恋愛が他者と向かい合うことなのだと、柄谷行人が言うように一つの崖を飛び越える賭けのようなものなのだとすれば、その賭けの結果を引き受ける態度はどのようにあるべきなのだろうか。

 

少し遠回りになってしまうが、自分自身のことからはじめたい。なぜなら、わたしが、あなたと付き合う、というとき「あなた」がどのような人なのかということと同時に「わたし」とはなにかという問題が同時に提起されるからである。このことを無視することはできないし、無視できないからこそ、こんなにも悶々としているわけである。

さて、自分は大学に入ってからこれまで、一貫した自己というものに対して否定的であったように思う。とはいえ、その態度自体はそんなに古いものではない。小さい頃にはそんなことを考えたことすらなかった。自己という自覚が、しかも反省的なものとして自分の中で問題に成り始めるのは、おそらく中学も後半になってからであったように思う。
高校時代、この一貫性は他者に対する反発と自らへの規制として存在していた。彼らとは違って自分はこうする、ああするといった一つひとつの実践が、自分の同一性を担保していたように思う。しかし、その一貫性のもつ息苦しさから少しずつ変わろうとしはじめたとき、それは同時に、一貫した自己というものがある日々の反復という実感によってしか支えられていないのだということが明確に自覚される。
今思えば、この「実践」は非常に深い意味を持つ。押井守の代表作Ghost in the Shellの中で、主人公の草薙素子は次のように言う。

人間が人間であるための部品が決して少なくないように、自分が自分であるためには、驚くほど多くのものが必要なのよ。他人を隔てる為の顔、それと意識しない声、目覚めの時に見つめる掌、幼かった頃の記憶、未来の予感・・・それだけじゃないわ。私の電脳がアクセスできる膨大な情報やネットの広がり、それら全てが<私>の一部であり、<私>という意識そのものを生み出し・・・そして、同時に<私>をある限界に制約しつづける――。

こうした様々な部品は、日々の実践の中で反復されながら、違和感なく動く身体という観念をつくりあげていくのである。しかし、考えてみれば、身体とは我々にとってままならないものなはずである。例えば病気の時のような異常な体験に加え、日常的にも寝起きや酒を飲んだ時など、身体が自己の思念の外側にあることを自覚する機会は、数え上げれば限りがない。にもかかわらず、なぜ我々はこんなにも「自己」というものを信じることができるのだろうか。
別の見方をすれば、この「自己」とは他者との関係の中で暫定的に生じる限りのものであるとすること考えることもできる。この前提となっているのは、人間はカオス(無秩序)に耐えられず常にその中にコスモス(秩序)を見出そうとするのだという、古代ギリシア以降続く人間観であるが、上記のような考え方によれば「自己」とは、他者との関係を形作る際に共同でつくりあげた「変化しない仮面」であると言える。我々はこの「自己=仮面」を足がかりとしてある程度その人がどのような人であるかという仮定を行うことができるからこそ、コミュニケーションを円滑に行えるわけであり、毎回相手が流動的な存在であることを想定などしていられない。それは特に日本においてはわかりやすいかもしれない。

さらに話はずれるが、仮面劇について面白い見解を読んだことがある。ポーラ・セミナーズの『演じる』という論集だったと記憶しているが、その中で仮面劇を実践している方が仮面をつけることによっていきなり開放感を味わうという人が多いという話をしていた。それはどうやら「顔」に関係しているらしく、つまり先程から問題にしている「自己=仮面」を具体的に表すものはまさに「顔」なのである。
中田基昭という現象学者が『表情の感受性』という著作の中で自己の捉えがたさについて、「いま、ここ」にある自己を自分は決して捉えられないということを述べていたが、「顔」というものはまさにその象徴である。「顔」は私という仮面の典型として他者に訴えかけているが、一方で私はわたしの「顔」を見ることは基本的にできない。もちろん鏡を使えば見ることはできるのだが、それはコミュニケーションをしているところの「いま、ここ」における私ではない。
このように自らの「顔」とは、他者との共同作業を通じてつくられる「仮面」のまさに象徴的なものであり、その特徴として他者を通じてしか把握できないという意味において、わたしの表情を一番気にかけているのは他者ではなくむしろ自分なのだと言うことができる。そしてそのことが日々において無限に反復していくことによって、「自己=仮面」は徐々に内面化されていき、構築されたコスモスとしてカオスである自己を拘束する、コミュニケーション可能なものへと置き換えていくのである。
仮面劇における「仮面」というのは、こうした「自己=仮面」の作用を一度中断させる効果を持つ。我々が無意識的に演じている役割を、より意図的な役割によって上書きすることにより、その内面を一旦カオスの状態へと戻すことができるようになるのである。

おどろくほど話がずれてしまった。しかしこのまま暴走してみたい。『現代思想』誌における2017年の特集で「コミュ障の時代」というものがあった。そのなかの対談で、國分功一郎と千葉雅也という哲学者が、すべてを明らかにしようとする、ということに対して違和感を表明している。彼らは現代を「コミュニケーション過剰」な時代だと呼び、自称コミュ障たちをそうした風潮への抵抗としても捉えているが、その中で「心の闇」を以下に保つかということへの言及がある。千葉は次のように言う。

現代的なコミュニケーションの主要な問題は、何でも明確に表に出して言うということの規範化だと思います。明るみの規範化。本当はそこまで言いたくない、黙っていたい、もうちょっと静かにしていたいというような 気持ちを尊重してくれない。おそらくそういうタイプの一部の人たちは、自分を「 コミュ障的」と自認したり、さらには「 コミュ障的」であることに何らかの抵抗的な意義を込めたりするのだと思います。明るみに晒さ れすぎることに対する抵抗ですね。

平田オリザ; 國分功一郎; 千葉雅也. 現代思想2017年8月号 特集=「コミュ障」の時代 (Kindle の位置No.1113-1118). 青土社. Kindle 版.


演劇家平田オリザが『わかりあえないことから』のなかで展開した「仮面」といかに付き合っていくのかという議論もまた、ここと重なり合うだろう。

中途半端な議論を展開しているが、仮面論に関しては哲学、人類学、芸術学など問わず非常に多くの蓄積が存在している。以前、アフリカにおける仮面舞踊等の研究をずっと続けてこられた人類学者の吉田憲司さんが書かれた本や、インドネシアにおける仮面芝居などの研究をされている福岡まどかさんの論文などを見ていくと、人類学の内部だけでもいかに深い議論がかわされてきたのかがよく分かる。自分はここまで「自己」と「仮面」という話をしてきたが、ここには当然「仮面」というもののもつ「もの性」に関する考察が抜け落ちている。近年の人類学の議論によれば、ある行為主体性を持つのは人間だけではない。「仮面」には「仮面」の文脈があるのであって、そのことを無視しては深い洞察は得られないということになる。

なるほど、非常に面白いが、さすがに本題に戻ろう。こうしたことを日々考えてきたわけだから「覚悟」といったことなどに対して、自分が非常に懐疑的なわけである。人間が何かを決めるということはできるのか。その責任を引き受けるとはいったいどういうことなのか。毎朝起きるたびに感覚が変わってしまうような人間にとって、そうした「一貫性」を前提とした「覚悟」はどのように引き出すことができるのか。そのことが、今回の件において重くのしかかっていたわけである。

 

ずいぶんと長くなった上にほとんど関係ない話題になってしまった。

最後に整理だけしておくならば、付き合うということを巡る「覚悟」の問題について、それが自己の一貫性を前提にしているということを確認しておきたかったのである。そしてそのことを自明だと思いこんでいた自分が、しかしいざ恋愛の現場に立った瞬間「覚悟」が必要だというところを出発点にして一週間も悩んでしまったという事実に、自分のことながら驚いたということになる。そのことは次回、詳しく書くことができたらと思う。