道の草を食わない

九州の上らへんから、ぼそぼそと。

書く

前回の記事からずいぶんと時間が空いてしまった。
あれだけ一日2000字書くと息巻いておいて、3日で息切れしているのだから世話はない。情けないのでブログ名だけでも戻したが、しかし、それだけではどうもだめだろうと思い、今年に入って何度目かのTwitter垢消しを実行した。

Twitterは猫である。
という説はかつて唱えていた。
両者とも、聴いているようで聴いていないと思ったら聴いていてくれたりする、そんな存在。その相手が不特定多数か、一匹の猫か、それだけの違いなのだと。

けれどやっぱり違う。

誰に読んでもらいたいと思って、あんなにいろんなことをつぶやいているのだろう。どうせ流れていくTLに日々の色々を入れ込んで、そうすることでなにを保っておこうとしているのだろうか。
TwitterのTLの奥に潜む期待はやっぱり猫とは違うのだ。
その期待から一度自分を解き放つ必要がある。

 

最近、京都に帰りたいと思うことが増えた。
道を歩くだけで過去のたくさんの物語が蘇ってくるあの街へ、帰りたい。いや、むしろ物語が次々と溢れてきたあの時代に戻りたいだけなのかもしれない。

 

物語ついでに書いておこう。
あまりにも無為に過ぎた週末を終えて、月曜日も一日ずっと寝ていた。何をしていたわけでもない。部屋の外からはカエルの声が聞こえ始めていたし、つい先日麦の刈り入れが終わった田んぼでは残った株と藁屑が焼かれていて、部屋に差し込んだ西日がいつだったかもらったまま出しっぱなしのミラーボールにあたって天井にいくつもの光の斑点を映し出したりしていた。そんなのをぼーっと見つめながらTwitterを眺めたり、漫画を読んだりしていた。

夜、帰ってくるシェアメイトに会うのが嫌で部屋を出て、大盛りがすごいというラーメン屋に行った。久しぶりに外の店での食事だったのだが、肝心のチキンカツを頼むつもりが隣のテーブルに運ばれてきた唐揚げ定食につられてついそちらを頼んでしまった。自分の意思の弱さがこういう場面でぽろっと出てきて、どうも気が滅入る。

しかしそんなことを吹き飛ばしてしまうくらいには唐揚げは美味しくて、お椀の二倍くらいの高さはあるのではないかと思うくらいに盛られたご飯も普通に平らげてしまった。そのままネカフェに向かった。

恋は雨上がりのように」を読んだ。
雨宿りをしていた二人が、雨上がりの世界へと歩いていく話だった。店長はおそらく何度も雨宿りをしてきたに違いない。それでも、雨上がりの空に恋する少女に出会ったことは、きっと、また雨がやんだあとの世界を歩く勇気へとつながったに違いないと思う。

いつだったか、雨の日を魅力的に描ける作品を書きたいと思ったことがある。天候というのは自分が思っている以上に心を左右するものだ。「雨の名前」という本がかつて父の本棚にあって、それを繰り返し読んだのを思い出す。同じ雨でもまるで違う。同じ晴れの日がこないのと同じように。

雨の日を楽しめる人間でありたいと思う。
何も成し遂げなくても良い。
日々の小さな変化を、それだけで楽しめるような人間でありたい。

 

家の近くにホタルが出るのを知ったのはつい最近のことである。

スマホなのできれいには取れなかったけれど、きれいだった。梅も収穫して漬け込んだ。梅雨入りが宣言されたというのにまだ蒸し暑くもならないけれど、なんだか夏が来たような気分になった。