道の草を食わない

九州の上らへんから、ぼそぼそと。

音楽と退屈

高校の頃、部活を終えて家に帰ると、いつも狭い居間で姉がチェロを弾いていた。バッハ、無伴奏チェロ組曲。僕が唯一知っているチェロのソロ曲であり、いまだに口ずさむことができる曲である。ミッシャ・マイスキーヨーヨー・マチェリストの名前はこのときに知った。特にそこから広げていないからチェロに詳しいわけではないけれど、たまにYoutubeでミッシャ・マイスキー無伴奏チェロ組曲を流すと、その頃のことが蘇ってくる。

チェロ一本で奏でられる旋律。
激しく揺れながら上下するメロディー。激しくなったかと思えばたっぷりと低音を響かせてくる感覚は、どこか身体の中にリズムとして刻み込まれている気がする。あの頃は本当に毎晩、ずっとこの曲を聞いていたのだ。

部屋にある大きな姿見も、確かその頃買ったものだ。弾き方を確認するためだといって誕生日だったかにやってきたのを覚えている。いまでは居間の端に追いやられているけれど、あの頃はいつも出しっぱなしでたまに猫がその前に座り込んだりしていたものだった。

通っていた学校には、やけに音楽を習っている人が多かった。特殊なカリキュラムの関係で楽器に触れることも多く、僕自身は音楽を習っているわけではないけれど、バイオリン、バス・リコーダー、ティンパニー、クラリネットあたりは授業で何度も扱った記憶がある。
もう6年以上前のことなのですっかり遠くなってしまったけれど、今となって思えば、なぜあの頃音楽を習わなかったのだろうか、ということが悔やまれる。しかし、あの頃の自分は周りがやっていることは絶対にやりたくなかったし、特に音楽だけは決してしないとなぜか心に決めていたのだ。なぜだろう。

 

なぜ、こんなことを話し始めたのかといえば、それは「響け!ユーフォニアム」を見たからに他ならない。吹奏楽部のアニメである。スポ根である。見ながらいいなあ、チューバとかやってみたいなあと思ってしまうのは、かつてほんの一端かもしれないが音を合わせることの楽しさを味わったからかもしれない。
決して音楽が嫌いだったわけではないはずである。コーラスは好きだったし、いつだったかクラスでオーケストラをしたときに扱ったティンパニーは本当に楽しかった。まったくの勘違いかもしれないし、やたらと反響がよかった音楽室のおかげかもしれないけれど、その時、確かに音が響き合ったのを感じたのだ。叩き方に合わせてティンパニーがまるで違う響き方をするのが楽しくて、何度も練習した。なぜあのとき音楽をしたいと言わなかったのだろう。

うちの家はかなり貧乏だったけれど、子どもに音楽を習わせることに関してはお金を惜しまなかった。当然限度はあったかもしれないが、でも、未来への貯蓄とかいうもはすべて後回しにして、そうしたところへお金を回すような人たちだったのだ。姉はチェロを、弟はバイオリンをやっていた。

そうだった。ティンパニーの件があった頃にはもう野球とバレーボールを始めていて、身体を動かすことに夢中だったのだ。だから音楽の価値は相対的に低くなっていて、家に帰ってもラジオばかり聞いていてクラシックなんて聞こうとも思わなかったのだ。

いま、大学4年目を迎えて、運動不足も極まり、決して太ると思っていなかった高校に比べて20キロ以上増えたことを諦めとともに受け入れるようになってようやく、ああ、音楽ができたら楽しいのだろうなぁと思うようになった。ピアノもいいけれど、やっぱり合奏がしたい。となると吹奏楽だろうか。ううむ、と考えてはいつも今から始めるのは遅いだとうか、と思ったりしている。

 

暇と退屈の倫理学、という本がある。
まだ若手の國分功一郎という哲学者の本で、たくさんの哲学者を扱いながらも読みやすい。一般向けと言ってもいいかもしれない。かなり売れた本だったと記憶している。

この本の主題は、我々はどのように「退屈」と向き合って生きていくべきか、ということである。少なくとも先進国は豊かになったといえる時代において、我々は「生きていく」ことについてであれば遥かに、過去の人々よりも手がかからなくなっている。多くの「暇」を手に入れているはずなのだ。しかし、著者は問う。我々はこの手に入れた「暇」をやりたかったことのために使えているだろうか。そもそもやりたかったことなどあったのだろうか。

暇には必ず退屈がつきものである。我々はこの退屈と向き合う方法を考えなければならない。

響け!ユーフォニアムを見て、それに憧れるとき、僕が憧れているのは音楽ではなく「没頭すること」なのかもしれない。そのことに意味があるのかないのか、そうしたことをどこか斜め上から考察しつづけるような退屈さではなく、まるで自分の時間のすべてがそのためにあるかのような、そうした没頭感。そうしたものを渇望しているのだ。

ここまで書いて気づいた。僕は退屈しているのである。退屈は嫌だから何かに没頭したいし、一方で退屈できるようなポジションにいたい、とも思う。没頭することは、どこか特権的だ。ある範囲の中にあってこそ成り立つものかもしれない。その範疇を忘れて没頭をのみ渇望することは、どこかテロリズム的な恐ろしさへの接続も感じる。けれど、その環状は確かに、僕の中にあるのだ。

だからこそ、ISISに参加しようと思って海を渡った少年たちの気持ちを、理解できないと切り捨てることは非常に危険である。むしろその気分はあらゆるところに蔓延していると考えるべきだ。現実感の欠如、操作感、自分が自分でない感じ、生きている意味の浮遊感、サブカルはその全てを覆いきれていない。

もともとは、音楽と退屈について書こうと思ったのだけれど、もう少し発展しそうなところへとやってきたので、また次に続けたいと思う。